東大寺 このページには、設営者が見聞した東大寺を記しています。 定説と異なる点もあるかと思います。 定説を知りたい方は、東大寺のwebサイトを御覧下さい(目次の本尊様の写真をクリック!)。 1.東大寺の歴代別当(寺社の長官) 2.私説、東大寺の始まり 3.大仏様って、誰? 何者?? 順次項目を追加して・・・いく予定。 |
1 東大寺の歴代別当(寺社の長官)
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2 私説、東大寺の始まり 東大寺は、千年を越える遙かな昔の奈良時代に成立した大寺院であります。 奈良時代とは、西暦710年から794年まで。 和暦ですと、和同3年から、延暦13年まで。 期間は84年間です。 すごく昔の話です。 時代劇や映画などをみると、当時のことは何でも分かっているみたいな印象を受けますが、実際には分からないことだらけ。昔の人は純朴で・・・、なんてトンデモナイ。 権謀術策(けんぼうじゅつさく)が交錯し、夜は百鬼夜行まで横行する複雑怪奇な時代です。 オマケに、権力者による資料の隠滅(いんめつ)と改竄(かいざん)も行われていたそうなので、千年以上経た今となっては分からないことが多いのであります。 だから、新資料が発見されると話が変わったりすることもあるそうです。 当時の日本は、天皇を頂点とする中央集権国家です、と書きますと、藤原氏がどうの豪族がどうのと言われそうです。国家体制についてさえ、様々な捉え方があるのですね。 従いまして、定説を知りたい方は、東大寺の公式サイト等を御覧下さい。この頁は、設営者が見聞した東大寺を記しております。 ・・・で、東大寺は、中央集権国家の頂点に君臨する第45代、聖武天皇の発願によって造営されたのであります。 即ち、国立のお寺だったわけですね。 天皇陛下のお仕事というのは色々と沢山あるとは思いますが、一言で言えば、天下万民を幸福にすること、と言えるでしょう。 ですから、天皇勅願のお寺の任務は、仏教を以て天下万民を幸福にすることだったと思います。 東大寺と言って一番印象的なのは、誰が何と言おうと大仏様です。 座ったままの高さで14.98m、 使った銅は約500t。 更に、造像当時は約400kgもの金を用い、 正に金ピカの巨大仏像だったらしいのであります。 その大仏様を収めた厨子にあたるのが、世界最大の木造建造物、大仏殿なのであります。 高さ48.742m、 幅57.012m、 奥行き50.480m の巨大さで、 葺いている瓦の重量だけでも約2270t と聞いております。 凄いですねえ。これだけでも溜息が出そうですが、創建当時は現在の約1.67倍もあったそうなんですから大変です。 今と違って、トラックもブルドーザーもクレーンも何も無い時代ですからね。 現在の東大寺は、約1km四方の敷地です。 広いなぁ、と思われるでしょうが、トンデモない。昔の寺社は、とてつもなく広大だったのです。 お寺の場合は明治の廃仏毀釈で原形を留めない所が多いですが、伊勢神宮や宇佐神宮などは、幾つもの山林を含む巨大な神域を擁している程広いことからも窺えます(それでも昔よりは狭くなっていると思いますが)。 広大な敷地に建つ巨大な大仏殿に収まる金ピカの巨大仏像。 大仏殿の左右には多重塔(ナント高さ100mの七重の塔、七重ですよ、七重。それが東西に対を成して建っていたそうです)やお堂、僧坊、経蔵などの建造物。寺には千人を超える僧侶がいたこともあったそうであります。 如何に当時の天皇陛下が権力者であろうとも、こんな、一つの村落を越える規模の寺院を造ることは簡単ではありません。 単に、仏教への信仰心から・・・などと発願したのでは、文武百官、貴族に役人、みんな揃って非難轟々(ひなんごうごう)、「ついに帝(みかど)は御乱心召された・・・」などと、退位を迫られかねません。 必要があって造るにしても、周りに図れば「それは良いお考えで・・・」などと太鼓を担いでくれる人は皆無だったと思います。山吹色の御菓子を前に、ニンマリするには規模が大き過ぎるのであります。 この事業は、正に国家の総力を傾けるほどの規模の大事業なのであります。 では、一体、どの様に東大寺は造られたのでしょうか。最初に申した様に、話が遙かに昔過ぎまして分からないことが多いのです。 分かっているのは、当時の日本は天変地異に疫病の流行などなど、天下万民が苦しんでいた様なのであります。 天下万民を幸福にしなければならない天皇陛下としては、何とかしなければなりません(注1)。 そこで、当時の最先端科学(?)、目出度くも天竺渡来の仏教の経典の「金光明最勝王経(きんこうみょうさいしょうおうきょう)」を活用することにしました。 近江国の紫香楽宮の聖武天皇は、金光明最勝王経を全国に頒布します(神亀5年・西暦728年)。 更に、金光明四天王護国の寺(国分寺)と 法華滅罪の寺(国分尼寺) を諸国に建立する旨の詔が発せられます(天平13年・西暦741年)。 ※:近江国の紫香楽宮 = 現滋賀県信楽町。信楽 焼の信楽です。狸の焼き物で有名ですね。 注1:古代から江戸時代に至るまで、我が日本の政治的権力者の多くは、天変地異や飢饉、疫病などの災害を、自らの責任(不徳が原因)と考えていた節があります。 飢饉となると、天皇や将軍、藩主たちが(自らの意志で)節制や断食をしたことや、風俗が乱れるのは自分の生活の乱れに端を発すると捉え、厳しく自分を律した。という話が沢山残されております。 「民草が哀れである」などと、口先だけで宣っておられた訳では無い様なのです。 判官贔屓(ほうがんびいき)は世の常ですし、この様な美談はドラマ化しても面白くないので知られておりませんが、残念なことです(一方で、困った為政者が沢山いたことも事実でしょうけれど)。 聖武天皇には皇太子として基親王(もといしんのう)がおられましたが、幼くして世を去りました。 この基親王を弔うために金鐘寺(こんしゅじ)を、紫香楽宮のある近江国ではなく、大和国に建立しております。 建立した年が、奇しくも金光明最勝王経を全国に頒布された神亀5年(西暦728年)です。 偶然とは思えませんが、偶然ではないとする資料もありません。このお寺が、先の詔の折に大和国の金光明寺(国分寺)に充てられました。 聖武天皇が建立したお寺が官寺(公の寺)になったわけです。 私の想像ですが、天災飢饉疫病は、それでも治まらなかったのでしょう。 ついに聖武天皇が一大決心を発します(続日本紀によると、西暦740年の浪速行幸の時から華厳教学に興味を持たれたらしいです。国分寺建立の詔を発する前年の出来事ですね)。 おそらくは、中国竜門石窟寺院の巨大仏の情報も、聖武天皇に届いていたことでしょう(当時の最先進国中国の状況は日本に多大な影響を与えています)。 聖武天皇は、天下万民のために、大仏を造像する詔を発しました。 天平13年(西暦743年)のことであります。 大仏造像は大変な事業です(それでなくても天災飢饉疫病に悩んでいたのですから)。いかに聖武天皇の意志とはいえ、簡単に話は進まなかった筈ですし、反対を押して決行するには事業規模が大きすぎます。 国を挙げての事業でなければ成功は覚束なかったでしょう。従いまして、詔を発する前に、文武百官、貴族や役人に対して大仏造像の思想と意義と必要性を説明し、納得させ、賛同させていたと思われます。 このことは、大仏造像と東大寺に関わった3人の著名な異国の僧侶について考えてみても推察されます。 開眼供養の時のインド僧、菩提遷那(ぼだいせんな)にしても、最初の講演を行った朝鮮半島新羅国の僧、審祥にしても、戒律を伝えるために来日した唐の僧、鑑真和上にしても、わざわざ、海越え山越え来られたのであります。 物見遊山にではありません。今から千年以上もの昔(望遠鏡も天気予報も無い時代ですよ)、木造の帆船に乗り込んで東海の孤島へ来たのです。 自殺行為です。正に、命知らずの大冒険。日本に来たら最後、二度と祖国には帰れないでしょう。日本に骨を埋めるしかないかも知れない。 菩提遷那にしても審祥にしても鑑真和上にしても、それぞれ各界の第一人者です(そうで無ければ来日して頂く価値がありませんから)。 わざわざ日本に来なくとも、学識も地位も名声もあったのです。鑑真和上に至っては、和上の出国は国の損失と、大唐帝国(今の中国)からの出国を拒否(妨害)されたくらいです。 それだけの大人物が、自殺行為の大冒険を強行し、弟子も地位も名誉も祖国も捨てて、その学識を日本へ伝えるために来られたのです。 では、かの大人物たちを、どうやって日本へ招いたのでしょう。 詳細は不明です。不明ですが、国を挙げて綿密に計画された国家事業としてであったからこそ、説得に応じて下さり、来日が可能だったのだと思います。 国家の大事業として始まった大仏造像は、最初、聖武天皇のおられる都、紫香楽宮の甲賀寺で始まりました。 ところが、紫香楽宮では群発地震が発生していたらしく、都を奈良の平城京へ戻しました。これに伴い、大仏造像の地も紫香楽宮から奈良の国分寺へ変更になります。 偶然かも知れませんが、聖武天皇が建立した金鐘寺を前身とする大和国国分寺に大仏が造像されることになったのであります。 さて、大和国国分寺に大仏造像が始まった頃、まだ、東大寺という名称は無かった様です。 「東の大寺(平城京の東の官立寺院)」などと呼ばれていたそうで、いつから東大寺と呼ばれる様になったかは、東大寺の謎の一つでもあります。 当時、大和国国分寺の周りには幾つかのお寺やお堂があったらしく、大仏様が出来、大仏殿が出来、周りのお寺やお堂を整理統合していく中で、いつとも知れず「東大寺」と呼ばれる様になったらしいのです(ですから、東大寺の前身は金鐘寺ではなく福寿寺であるとの研究もあるそうです)。 東大寺という巨大寺院。長い年月をかけて、周りのお寺やお堂を整理統合しながら建立、というか、成立してきたのですね。 |
3 大仏様って、誰? 何者?? 鎌倉の大仏様は阿彌陀如来(アミダニョライ)様で、俗に言う阿弥陀さんです。 この仏様は有名ですから皆さんも良くご存じのことでしょう。では、東大寺の大仏様は??? 華厳宗では、華厳教主の 『盧舎那仏(ルシャナブツ)』 と呼んでおります。 分からないでしょう。サンスクリット語(梵語)で『ヴァイローチャナ』と記されているお名前の、音を漢字で表した(音訳)ものですから、漢字からはどんな仏様なのか想像できません。 『ヴァイローチャナ』と盧舎那(ルシャナ)。音訳とはいえ、明らかに『ヴァイ』が抜けてますよね。 もともと『華厳経』とはインドのサンスクリット語(梵語)で書かれていたらしいのです。 伝説では、ナーガールジュナ(龍樹)というお坊さんが竜宮から持ち帰ったらしいのですが、中国に伝わった時にはサンスクリット語だったのです。 で、このお経を中国語に翻訳(ほんやく)したお坊さんが2人いたから、2種類の『華厳経』ができたのであります。 最初に訳したのはブッダバドラというお坊さんで、西暦408〜429年頃に『華厳経』を60巻のお経として翻訳しました。 これを60巻本とか六十華厳経とかと申しまして、旧訳、普訳(普の時代に訳したから)とも申します。 次に、ジッシャナンダ(シクシャーナンダ)というお坊さんが、西暦699年頃に80巻のお経として翻訳しました。 これを80巻本とか八十華厳経とかと申しまして、新訳、唐訳(唐の時代に訳したから)とも申します。 ようやく『ヴァイ』の話ができますね。早い話が翻訳の結果です。 60華厳経では『盧舎那仏』 と訳されているのです。 日本に華厳教学を伝えたお坊さんたちが専門にしていたのが60華厳経を元にしていたので、日本の華厳宗のご本尊様は『盧舎那仏(ルシャナブツ』となったのですね。 この盧舎那仏様、右手が施無畏印、左手が与願印という印契(いんげい:手の形)をしております。生きとし生けるものの全ては勿論(もちろん)、全てのものを無限の光明(仏の光)によって照らすという、有り難い仏様です。 皆さんも、世界を照らす輝く人になれるよう、しっかり拝んで下さいね。 順次項目を追加して・・・いく予定。 |
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