011gimon

  
   
素朴な疑問
 
 この部屋では、なんとなく思った素朴な疑問について、私なりの考えを記してみました。
 皆さんの疑問も、是非お寄せ下さい。
 
1 拝んだら、救われるの?
2 拝むって、どういうこと?
3 仏様って、何?
4 修行って、一人でやるものなの?
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

011gimon01

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1 拝んだら救われるの? 
 
 そうですねぇ、ある意味では救われますし、ある意味では救われないでしょう。
 
 日常生活の中で、良いことがあれば神仏先祖のお陰と感謝する。 
 悪いことがあっても、大難を小難に抑えて下さったと神仏先祖に感謝する。 
 何事もなくとも、平穏無事は神仏先祖のお陰と感謝する。
 
 この様に日々を感謝で過ごせれば、素晴らしいことでしょうね。
 
 この、感謝の心を培うためには、やはり「拝む」という行為は大切だと思います。但し、この場合は、
   「拝む」=「感謝」
という意味になっていることに注意しましょう。
 
 
 では、それ以外の場合はどうでしょう。
 
 例えば「明日天気になります様に」といった願いは遠足前の子供にとっては切実な願い事でしょう。
 
 天の神様、仏様、ご先祖様に一生懸命拝んだとしても、結果は運次第といった所でしょうか。
 
 
 学力向上の願いの場合はどうでしょう。学校に「文殊先生」という先生がいたとしましょう。そして、生徒にA君とB君がいたとしましょう。
 
 A君は文殊先生を信じて「南無文殊先生」と一生懸命に唱えました。
 神仏ご先祖様も、毎朝毎晩、拝みました。
 でも、勉強はしませんでした。
 
 B君は、文殊先生を信じて、教わったことを一生懸命勉強しました。
 でも、文殊先生と唱えることはしませんでした。
 神仏ご先祖様も、手を合わせるくらいで、そんなに一生懸命には拝みませんでした。
 
 さて、一年たったとします。結果は皆さんのご想像にお任せしますが、私は、拝まなかったB君の学力が向上していると思います。
 
 即ち、この場合は、拝んでも救われないと思われるのであります。大切なのは、本人の正しい努力でしょうか。
 
 
 それぞれ、特殊事例みたいにも思えます。「拝む」とな何か。「救い」とは何か。が、漠然としているのでスッキリしない答えになってしまいましたね。

 まぁ、例え自分の努力の結果であったとしても、その陰にはご両親や友達、近所の方々など、自分では気付かない方のお陰があるものです。
 
 だからこそ、何事に依らず、感謝の心を忘れないためにも、神仏、先祖をお陰の代表として拝むことが大切なのでしょう。
 
 感謝の心を持つ人は、見ていても気持ちの良いものです。

 反対に、自分の正しい努力なくしては、いくら拝んでも意味がないことも自明の理であります。

 正しく拝んで、正しく努力、致しましょう。
 
 
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011gimon02

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2 拝むって、どういうこと?
 
 これは難しいですね。私は常々「拝んで救われる筈がない」と言って嫌われている変な坊主なのですが、それでも矢張り拝みます。ではどういう風に??

 例えば勉強では、勉強するとはどういうことかを教わった記憶があります。
 
 今、子供に尋ねられれば尤もらしい事が言えます。
 
 同じ質問を他の人にしたところで、大同小異の答えが返って来るだろうと期待もできます。
 
 ところが、「拝む」という事に関しては、「こうすることが拝むということだ」。と明白に教わった記憶がないのです。
 
 仏様をしっかり拝みなさい、とか、初詣の時などにも、しっかり拝みなさい、とかと、言われはしたのですが、その内容はどうも判然としないのであります。

 皆さんだったら、神社仏閣で30分間しっかりと拝みなさい、と言われたら、30分間もどうしますか?

 私の数少ない見聞ではあるのですが、世間では、
  「拝む=お願いする」が最も多く、
  「拝む=感謝」が次に多い、
というか、この2つが殆ど全てでした。
 
 僅かに「拝む=無心になる」「○様、○様・・・と唱え続ける」というのも在りましたが・・・。でも、それで良いのでしょうか。
 
 確かに、「お願い」「感謝」「無心」「呼びかけ」という拝み方もあるでしょうけれど、それが拝むことの本質とは思えないのであります。
 
 たとえ話をしましょう。
 
 ここに一体の観音菩薩像があるとします。
 
「この観音様は、全ての魔を祓い、苦しみを除き、幸福をもたらし、全ての人々を救って下さる有り難い仏様です」。
 
 と、立て札に説明書きがあったとします。良くある話ですよね。
 
 この説明書きを信じて「ありがたや、おめでたや」と拝んでみました・・・。
 
 これでは美しい思い出の一頁にはなっても、現実的に困っている人が、これで救われるかどうかは、疑わしい限りです。
 
 
 少々厳しい表現になりますが、上記の立て札の内容を箇条書きにしてみます。
1)「拝む人の状況は別にして、
2) 何処かの 誰か(悪霊?)が 
3) 拝む人の 何かを どうにかして 
4) 不幸にしている。
5) だから、他の、
6) 何処かの 誰か(観音様)に、
7) 拝む人の 何かを どうにかして
8) 幸せに 救って下さる
9) その、何処かの誰か(観音様)です」 

ということですよね。 これって、やっぱり胡散臭いですよ。
 
 悪霊や観音様がいるのかどうかは分からないのですし、「何処かの誰か」とか、「何かをどうにか」とか明白ならざる単語の組み合わせです。
 
 不幸と幸せにしても、しているらしい、して下さるらしい、ということだと思います。


 2)から9)の中で確実なものは「拝む人」だけです。1)の初期条件では当人の状況すら分からない。
 
 ひょっとしたら、逃走中の犯罪者が隠れているお寺で拝んでいるのかも知れない。拝んだら逃走が成功した・・・では、大変です。
 
 
  お釈迦様の教えに依りますと、全ては因果応報。善因善果・悪因悪果が法則です。今現在不幸な状況にある人は、当人の過去に原因があるのであります。
 
 自他共に認める善人だったとしても、無明に覆われた我々凡夫は何が善因で何が悪因かを知りません。
 
 また、不幸は将来のための試練かも知れません。
 
 望んで誰かの不幸を肩代わりした結果かも知れません(仏教では過去世のことも問題にします)。
 
 結局、私たちに分かるのは、過去の自分の行いによって、今の自分(の状況)がある。ということだけです。
 
 今の状況が、幸なのか不幸なのか。困った状況が無くなった方が良いのか、乗り越えるべきなのか。私たちには分からないのであります。
 
 だから、立て札に書くべき、正しい内容は次の通りだと思います。

1)「状況は別にして 
ではなく、
          
例え知らなかったとしても、
2) 何処かの 誰か(悪霊)が 
ではなく、
          
ここにいる私が
3) 拝む人の 何かを どうにかして 
ではなく、
          
自分の過去の行いによって
4) 不幸にしている。 
ではなく、
          
今の状況になった。
5) だから、他の、 
ではなく、
          
ここにいる私が
6) 何処かの誰か(観音様)に、 
ではなく、
          
面前の観音様を模範にして
7) 拝む人の 何かを どうにかして 
ではなく、
        
自ら心と行為を観音様に改めます。
8) 幸せにして救って下さる 
ではなく、
          
私が観音様になれたなら
          観音様と同じ状況になれる。

9) その、何処かの誰か(観音様)です」
ではなく、
          
そのお手本の観音様です。


  もうお解りですね。観音様を拝むということは、観音様と同じ心になり、観音様と同じ行為をすることです。
 
 即ち自分が観音様の化身になる、ということです。
 
 この世は合わせ鏡だと、昔の人は言ったものです。幸も不幸も、自分が自分を写している。だから、自分が観音様になれば、自分も観音様の世界に生きて行ける。これが、救いの真実なのではないでしょうか。

 ※ 雑記帳 「神社参拝の作法」も参考にして下さい。
 
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011gimon03

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3 仏様って、何?
 
  仏様が本当にいるのかどうか、私には分かりません。仏様は、お父さんやお母さんと同じ「概念」ではないかと私は考えております。

 この世には、お父さんやお母さんは沢山います。
 
 でも、絶対的なお父さんや母さんなんていません。
生まれた時からお父さんです。なんて人、いないですものね。
 
 誰でも、お父さんやお母さんになれるのです(反対に失格にもなれますが)。
 
 保母さんはみんなのお母さんですし、社長はみんなのお父さんだったりもします。場合によっては、兄貴がお父さんでありお母さんでした、という人だっています。故マザーテレサは、全人類の母と呼ばれましたよね。

  同じ様に、誰だって仏様になれるのです。
 
 みんなが仏様になり易い様に、お姿や行為についての記述が経典に記されておりますし、お寺とかに仏様の像や絵姿が祀ってあるのです。
 
 なかなか完璧にはなれませんが、それは、お父さんやお母さんでも同じですよね。
 
 細かいことまで詮索すれば、みんな失格のお父さんお母さんばかりです。だからこそ、より良い父、より良い母になろうとして頑張るのですよね。

 完璧な仏になるべく努力する人を菩薩と呼びます。
 
 だから、観音菩薩の様なお母さんになろう、と頑張る母の姿、それが、本当の観音菩薩なのでしょう。
 
 もしも、貴方が仏になろうと努力を始めれば、その日から貴方も菩薩です。
 
 みんなが菩薩になって、この世に菩薩が増えれば、いつか、この世が仏の世になるのでしょうね。

  仏様って、何? それは、未来の、アナタです。そうなる様に、拝みましょう。
 
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011gimon

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4 修行って、ひとりでやるものなの?
 
 最初のうちは、多くの人と一緒にやった方が良いかも知れません。朝のラジオ体操と一緒で、自分一人だと、なかなか長続きしないものです。それに、出来る人と一緒にやると、結構コツがつかみ易いものですしね。
 
 座禅を組もうと思ったら、近くの座禅会などに行ってみるのも良いと思います。慣れてきたら、自宅で一人で行うと良いでしょう。
 
 座禅会で座禅を組んでいても、居眠りしたり、形だけで空想に浸っていたのでは上達しません。真面目にやっているかどうか他人には分かりません。だから、例え大人数で修行したとしても、結局は自分一人の問題とも言えます。
  
 修行は段階を経て上達します。壁に当たることもあるので、出来れば信頼できる師匠(先生)を探して修行するのが理想でしょう。
 
 武道の諺ですけど、『3年間独学するより3年間師匠を探せ』というのがあります。仏道も同じだと思います。
 
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011gimon05

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5 工事中
 
 みなさんの 素朴な疑問 お待ちしています
 
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