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華厳宗 目次
 
1.はじめに
 
2.奈良時代の仏教
 
3.東大寺の仏教
 
4.華厳経
 
     順次項目を追加していきます。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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1 はじめに
 華厳宗は、東大寺を大本山とする仏教の宗旨です。
 
  東大寺は八宗兼学の道場といわれ、全ての宗旨の仏教を研究する国家機関だったと考えられています。
 
  しかしながら、東大寺は創建当初から華厳教学との縁が深く、長い歴史を通して華厳教学ととても深いご縁があるお寺であることも事実です。
 
  明治時代に一寺宗旨を決めねばならない時、華厳宗を名乗ったのも偶然ではありません。
 
  華厳教学はとても難解であり、とても私の如き一僧侶が説き示すことができるものではありません(謙遜ではなく本当です)。
 
  しかし、今では一般に知る人の少なくなった華厳教学の一端を示すことで、少しでも日本の仏教に興味を持って頂けたなら幸いと考え、私の理解の範囲で記してみることとしました。
 
  勘違いや思い違いがあるかも知れません。ご意見等ありましたらご連絡頂けると幸いです。また、興味のある方は専門書を読まれることをお薦め致します。
 
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2 奈良時代の仏教
  一般に奈良仏教と申しますと、具舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、が挙げられます。
 
  これらを総称して南都六宗と申します。
 
  ここで、「宗」という言葉ですが、当時は「衆」を用いていたそうであります。
 
  これは、この六宗はそれぞれが無縁のものではなく、例えるならば、国語、算数、理科、社会の様なもののためです。

  仏教を学ぶためにある教学が、具舎、成実、律、法相、三論、華厳の六種類あって、それを学ぶために集まっていた僧侶を○○衆、と呼んでいたのだと思われます。
 
 それが何時しか仏教を学び、研究するお寺の専門性が強くなってきたのでしょう。律を専門に研究する唐招提寺には律衆が多く集い、いつしか唐招提寺は律宗と呼ばれるお寺になった。
 
  法相を専門とする興福寺や薬師寺には法相衆が多く集い、いつしか興福寺や薬師寺は法相宗と呼ばれるお寺になった。と私は考えております。
 
  このことは、奈良時代、平安時代のお坊さんが、色々な宗旨のお寺で学び、色々な宗旨の師匠様の教えを受けていたことからも窺えます。

  当時のお寺は仏教の大学の様な存在だったのでしょう。現在とは違ってお寺が宗旨によって厳密に区分されていませんでした。
 
  当時のお坊さんは、色々なお寺(大学)を巡って多くの師匠(教授)の教えを受けて仏教を会得していったのだと想像しております。
 
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3 東大寺の仏教
  官立の寺院では宗派の違いに囚われず、広く仏教全般を研究していたらしいです。
 
  その中でも東大寺はちょっと変わった立場で、全ての宗旨宗派の仏教を研究していたらしいのです。
 
  仏教の総合大学的存在ですかね(遙か昔のことなので断定して良いかは判りません)。
 
  鎌倉時代の東大寺の華厳宗僧侶、「凝然大徳」師が著された「八宗綱要」という書物があります。現在でも仏教の大要を学ぶのに適した書物ですから、不朽の名著というに相応しい書物です。

  「八宗綱要」には、華厳宗だけではなく、奈良仏教の具舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、の六宗に、真言宗、天台宗の二宗を加えた八宗についての大要が説かれております。
 
  加えて、鎌倉当時としては導入されたばかりの禅宗、浄土宗についての言及もあります。この様な書物(教科書)を東大寺華厳宗の僧侶が著していたことからも、東大寺華厳宗は仏教の総合大学的色彩が強かったのではないかと考えさせるのであります。

  現在の東大寺は華厳宗です。これは、明治維新の時に宗旨を決める必要があったからです。
 
  天平12年(西暦740年)東大寺(の前身)で最初に講じられた教えが、大安寺の審祥による華厳経でした。創建当時から華厳宗の色彩が強かったのかも知れません。ご本尊である大仏様は、華厳教主のビルシャナ仏ですしね。

  ともあれ仏教の総合大学という性格は今も昔も変わりません。東大寺は今でも宗旨宗派を超えた活動、時には、宗教の垣根をも超えた活動をしております。
 
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4 華厳経
 華厳教学とは、華厳経という経典に記されている教えを教学の基本とするものです。では、華厳経とは何でしょうか。
 
  正式名称は『大方広佛華厳経』と申します。

  中国の華厳宗の宗祖の一人であります、香象大師(こうぞうだいし)法蔵(ほうぞう)によりますと、十種類の華厳経があるそうです。
 
  これを『十類華厳』と申します。その十種類とは以下の通りです。

 1 略本経 (中国訳伝の経)
 2) 下本経 (三本華厳の一)
 3) 中本経 (三本華厳の一)
 4) 上本経 (三本華厳の一)
 5) 晋眼経 (一即一切の理を見る普眼法門)
 6) 同説経 (仏が百億の同類世界に現じて、同じくこの経を説く)
 7) 異説経 (仏が百億の異類世界に現じて、衆生の報類に随いこの経を説く)
 8) 主伴経 (仏が十方諸仏と、互いに主となり伴となり、皆この経を説く)
 9) 眷属経 (仏が機に随い三乗の教えを説いて、一乗に引入する方便とする)
 10) 円満経 (1〜9 を悉く融じて一大経となす)

 この十種類の華厳経の中で、文字に記された経典は2)、3)、4)の三種類だそうです。これを『三本華厳』と申します。
 
 伝説によりますと、昔のインドの龍樹(ナーガールジュナ)というお坊さん(実在)が龍宮にて『大不思議解脱経(華厳経のこと)』を見られたところ、三種類あったというのです。

 上述4)の上本経は、十個の三千大千世界を微塵(みじん)に砕いた時にできる塵(ちり)の数ほどの偈文(げもん、韻文のこと)が、 十四の天下を微塵に砕いた時にできる塵の数ほどの品(ほん、文章の単位、章)として成っており、人間界に流布できるものではなかったそうです。

 上述3)の中本経は、49万8千8百の偈文が千2百品として成っており、これも人間界に流布できるものではなかったそうです。

 上述2)の下本経は、10万の偈文が38品として成っており、これを龍樹菩薩が持ち帰ってインドに伝えたそうであります。

 インドに伝わっていた下本経を、中国語に訳したものが私たちが一般に言う『華厳経』なのですが、これにも3種類あります。晋経、唐経、貞元経、というのがそれで、以下の通りです。

 晋経:中国の晋の時代、東晋の覚賢三蔵(かくけんさんぞう・仏陀跋陀羅 ぶっだばつだら・ブッダバドラ)というお坊さんが、3万6千の偈文を60巻の経典として訳しました。
 
 これを、晋の時代に訳したので晋経、古い訳なので旧訳、60巻なので60巻本、60華厳経、などと呼ばれています。
 
 ちなみに、日本の華厳宗での華厳教学は、主に60華厳を元にしております。

 唐経:中国の唐の時代、喜覚三蔵(きかくさんぞう・実叉難陀 じっしゃなんだ・シクシャーナンダ)というお坊さんが4万5千の偈文を80巻の経典として訳しました。これを、唐の時代に訳したので唐経、新しい訳なので新訳、80巻なので80巻本、80華厳経、などと呼ばれております。

 貞元経:中国の唐の時代の貞元年間に、般若三蔵(はんにゃさんぞう)というお坊さんが、『入法界品』を40巻の経典として訳しました。
 
 貞元年間に訳したので貞元経とか、そのまま入法界品、などと呼ばれております。

 華厳経と一口に申しましても、その種類は数多くあるのですね。


 伝説はさておき、中国に華厳経が伝えられたのは事実であります。
 
 伝えられた経典は、梵語(ぼんご・サンスクリット語のこと)で記されていたと考えられています。
 
 原典である梵語の経典は、60華厳の場合も80華厳の場合も失われてしまい、現存しません。
 
 ただ、『十地品』は『十地経』として、『入法界品』は『不可思議解脱経』として、梵語の独立経典として現存します。

 学術的には、インドで成立した経典類(十地経や不可思議解脱経など)が中央アジアに集められて編纂され、「佛華厳と称する広大な経典」という意味の名前の梵語経典が成立したと考えられています。
 
 これが中国に伝わり、『大方広佛華厳経』という名で翻訳されたのであります。

 
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