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4-2 縁起2
(この部屋は、番号順にお読み下さい)
座禅の実習は続けておられるでしょうか。座禅中に考えること。それが、この縁起です。
字面だけでは意味が分からないかも知れませんが、ここでは詳しく説明できません。と、申しますのも、「幻空寺」の縁起は転生輪廻思想抜きにしては説明できないのです。
実感しながら進む「修行」なので、禅の実習をされない方に説明すると、揚げ足を取られたり、誤解、論難、誹謗中傷の種を蒔くことになります。
詳しく学びたい方は、「信者さんの部屋」へお進み下さい。
縁起とは、「縁に依って起こる」ということで、一般的には2種類の縁起が説かれております。
1:時間の縦軸の縁起(過去現在未来の因果関係)
原因としての種がある。その種に、水、光、温度といった条件(縁)が整うと、発芽が起こる。ということです。全ての事象には必ず原因がある。原因のあるものは、縁が整えば、必ず結果が生ずる。
2:時間の横軸の縁起(相互依存関係)。
男と女の関係。女がいなければ、男もいませんし、男がいなければ、女もいません。男は、女がいるから男なのです。女は、男がいるから女なのです。
【男】は【女】に依存して【男】であるわけです。
【女】は【男】に依存して【女】であるわけです。
数字ので説明すると、1、2、3・・・と無限に続く数字ですが、全ての数字があるからこそ、数字は意味があるのですね。
もしも、数字がそれぞれ単独で存在したら、1+1=2、ではなく、1が二つ、ということになるでしょう。これでは単なる文字であって、数字として機能しません。
数字の【1】は【1以外の全ての数字】に依存して【1】なのです。
同じように【2】は、【2以外の全ての数字】に依存して【2】なのです。
時間の横軸の縁起とは、この世のすべてのモノは、どの一つのモノも、他の全てに依存して存在している、という意味です。
一つのモノとは、何でも宜しい。月とスッポンは何の関係もなさそうですが、「月」はそれ以外の全てに依存して「月」であれるわけですから、それ以外のモノの一つ、「スッポン」にも依存して存在していると(縁起では)言えるのです(注1)。
この様な、相互に依存しあって存在する場合を時間の横軸の縁起と呼びます。
注1:仏教哲学では依存関係ですが、実生活では何の関係も無いでしょう。学校とか職場でそんなことを言うと、変な奴か嫌な奴になってしまうので注意しましょう。
縁起という言葉の説明はこれくらいにして、前回、字面だけを紹介した12支の縁起です。
1:無明 があるから 行 がある。
2:行 があるから 識 がある。
3:識 があるから 名色 がある。
4:名色 があるから 六入 がある。
5:六入 があるから 触 がある。
6:触 があるから 受 がある。
7:受 があるから 愛 がある。
8:愛 があるから 取 がある。
9:取 があるから 有 がある。
10:有 があるから 生 がある。
11:生 があるから ↓ がある。
12:老死、憂、悲、苦、悩、絶望 (がある)
縁起は、単純には「此あれば、彼あり(これあれば、かれあり)」という2支の縁起でも良い様です。
その他にも、3支、4支、6支、等々、その支分は一定ではありませんが(12を超えるものもあります)、この12支が過不足無く都合が良かった様で、何時しか一般的な支分となった様です。
上に記したのは縁起の順観です。順観によって、問題(老死、憂、悲、等の苦の原因)が捉えられれば、解決方法も見えて参ります。即ち、
1:無明 を無くせば 行 が滅す。
2:行 を無くせば 識 が滅す。
3:識 を無くせば 名色 が滅す。
4:名色 を無くせば 六入 が滅す。
5:六入 を無くせば 触 が滅す。
6:触 を無くせば 受 が滅す。
7:受 を無くせば 愛 が滅す。
8:愛 を無くせば 取 が滅す。
9:取 を無くせば 有 が滅す。
10:有 を無くせば 生 が滅す。
11:生 を無くせば ↓ が滅す。
12:老死、憂、悲、苦、悩、絶望 (が滅す)
ここで私たちには大きな問題があります。
これらを修行によって、自ら認識された釈尊だからこそ、この縁起の法によって「さとり」が得られたのであり、「さとり」を得られた釈尊だからこそ、無明から出発する縁起観が可能だったのであり、「さとり」を得られた釈尊だからこそ、得られた認識を言語化して表現できたのだと思います。
修行者にとって必要なことは、言葉で表現された縁起を知ることだけではなく(これも重要ですが)、如何にして、この様な認識を得るかということだと思うのです。
何故なら、「さとり」を得ていない私たちには、「無明」の意味は分かっても認識できません。結局、無くそうにも無くし様がないのであります。実体験に基づく認識的理解がないと、頭でいくら分かってもダメなのです。
「そんなことはない。経典も注釈書も論文も沢山あるのだから、努力すればきっと分かる」と言われる方もおられるでしょうが、そういう方は、その方法で頑張って下さい。
残念ながら、私には、それは無駄な努力としか考えられません。
例えば、英会話で「L」と「R」の発音が区別できない学生が、一生懸命「L」と「R」という文字を睨んで頑張っても修得は不可能です。
「L」と「R」の発音が出来る人に教えて貰い(発音記号を見て、発音を聞かせて貰い、自分の発音を聞いて貰い、口の形や舌の位置や息の調子を教えて貰う。実体験としての指導)、その違いが認識できた時に漸く、発音が可能になるの(だと思うの)です。
認識できないことは、行えない。当たり前だと思います。
この様なことは、技能の世界では「勘所」「ツボ」「こつ」、現代風には「ノウハウ」などと申しまして、なかなか言葉で表現出来ないモノなのだと思います。だからこそ「熟練の技は盗むもの」と言われ、昔の師弟関係では衣食住を共にして、一挙手一動足までも真似して技を盗んだ(盗ませた)ものと思います。
「それならお前はナンなんだ」と言われそうです。
私だって、釈尊から教えを受けた訳ではないですし、それなら結局ワカランのだろう、と言われればその通りかも知れません。
しかしながら、この実体験に相当するものが「禅」であり、「禅」によって認識できたことを、釈尊の教えに照らしながら進んでいく。四聖諦の項目でも記した様に、間違っていれば、釈尊の教えを実感として捉えることは出来ないでしょう。反対に、正しければ、実感として捉えることが出来るでしょう。これを繰り返しながら、正しい道を探って行けば、いつか、「さとり」に到達できる日が来るかも知れません。
頭で理解するよりも、時間がかかって大変です。しかし、仏教は、実践の宗教だと思います。実践し、実感し、階段を一段づつ登って行く。そうすることによって、自分の認識が変わり、自分自身が成長して行く。そうある様に、修行したいものであります。
出来ないことは、どんなに頑張っても、出来ないのです。
現実を見つめ、理想を掲げ、現実と理想の間に目標を設定し、目標に至る方法を考えて実践する。
目標と方法は、必要に応じて適宜修正する。
出来ることを、出来る様に、頑張りましょう。
「実践が大切の部屋」は、ここまでです。ここから先は、「信者さんの部屋」にお進み下さい。
但し、独自の前提条件を設定し、抽象的概念による説明が多くなります。禅を実践されない方には、現象の説明や理論の飛躍が理解出来ないと思います。
禅の実践をせず、頭での理解ができないがための論難や中傷は迷惑なので、実践する人のみ、「信者さんの部屋」の入り口を良く読んで、賛同される方だけ、お進み下さい。
私は、考え方が異なる方々と論争したり、折伏(説得)したりすることを好みません。学校が沢山ある様に、宗教も、教えも、沢山あります。どんな教えも、それぞれに尊いものです。自分に合った信仰を歩まれる様、お勧め致します。
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