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3-5 まとめ
 
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この部屋は、番号順にお読み下さい 

 座禅の実習は続けておりますでしょうか。忙しい時は、昼休みに5分でも良いから、なるべく毎日続けましょう。
 
 これまでに記しました四聖諦の再確認と、八正道の補足説明をしておきます。
 
 四聖諦(苦の真理・苦の集の真理・苦の滅の真理・苦の滅への道の真理)。
 
 何をするにもそうですが、先ずは動機が必要です。毎日が楽しくて嬉しくて仕方がない。そして、この幸せが未来永劫続きます。これならば、仏道なんて歩む必要ありません。そのまま幸せで居れば良いわけです。
 
 しかし、悲しいことですが、この世にそんな幸せは無い(らしい)のです。
 
 「そんなことはない。私は、毎日を楽しく嬉しく幸せ一杯で暮らしていますよ」という人もいるでしょう。けれど、幸せは未来永劫と続くのでしょうか。病気もせず、老いもせず、死なずにおれるのでしょうか。やはり、将来を思うと不安があり、最終的には死の床に就かねばならないのが、生まれ出た者の宿命です。
 
 現実を直視するならば、やはり、この世は「苦」なのでしょう。これが、四聖諦の1番「苦の真理」です。

 誰でも「苦」は嫌ですよね。何とか逃れたいものです。
 
 何で「苦」があるのでしょうか。これは、この世が無常だからです。
 
 全てのものは、変わって行きます。ウサギを追った古里の山は住宅地に変わり、小鮒を釣った小川は、今ではダムの底だったりします。優しかった恋人も、いつしか冷たいストレス発生機。大好きだったシュークリームも、糖尿病になってからは食べられません。アレもダメ、コレもダメ。思い出だけは美しく。なんだか溜息が出てきそうです。
 
 そうなんです。時の流れというのは怖ろしいもので、全てのモノを流し去ります。人の心だって、私の心だって変えてしまうのです。
 
 こんな、無常な世界の住人が、無常なものに執着するところから「苦」が生じるそうであります。執着=欲求の充足ですね。
 
 執着、とは侮れないもので、これは死んでもついて来るそうなのであります。だから、欲求に対する執着を持って死んでしまうと、再びこの世に生まれ出てきて欲求を満たそうとします。これが、輪廻転生ですね。
 
 死んでも「苦」からは逃れられないのです。卑近な例ですが、「もう一度アイスクリームが食べたい」と思い詰めて死んでしまうと、生まれ変わってアイスクリームを食べまくる・・・といったことになるのでしょう(カルマの法則にも繋がりますから、良く憶えておきましょう)。
 
 これが、四聖諦の2番「苦の集の真理」です。
 
 問題とは、問題を正しく認識できたとき、解決方法も見えていると言われます。そう、その通り。四聖諦の3番「苦の滅の真理」とは、欲求を無くし、執着を無くすことです。
 
 しかし、これは難しい。「息を吐くと、吸いたくなります。これって、欲求?」と問われれば、確かに欲求に違いありません。しかし、これは捉え方が間違っています。物事には順序があります。今日、登山を始めた少年に、明日ヒマラヤに登れ!!と言っている様なもので、実践すれば死んでしまうでしょう。
 
 1−2で示した様に、理想と現実、目標と方法を正しく認識しないと、ロクなことになりません。
 
 それに、欲を無くすって、なんだか、この世が面白く無くなる様な気がしませんか?
 
 そんな詰まらない世界を望むより、限られた時間ではあるけれども、ささやかな幸せと楽しみの人生を送りたい・・・。と考えるのが人情です。死んだ後の事は解らないのですから、たった一回の人生を楽しく過ごそう、というのは当然です。
 
 これが、仏教の大いなる誤解の一つなのです。
 
 何が何でもと欲求を抑圧しても、何にもならないのです。抑圧した欲求は、心の奥底に仕舞い込まれて、無くなったりしません。我慢大会をするのではないです。
 
 自分が持っている欲求は、本当は意味がなく、価値がなく、欲する必要がないものだと、子供の頃の玩具と同じである、と思える様に、成長することが大切なのです。
 
 仏道とは人間的成長(完成)の道です。成長した人間には、成長前よりも大きな楽しみと幸せがあります(子供の楽しみより大人の楽しみの方が大きいでしょう)。
 
 成長の最終段階が、「さとり」というとんでもない所に設定されているだけで、例え途中までしか行かれなくても、成長することに違いはないのです。決して、ささやかな幸せと楽しみを否定するものではありあません。ご安心下さい。

 長くなりましたが、最後が四聖諦の4番「苦の滅への道の真理」で、八正道と呼ばれます。
 
 前回(3−4)で説明したばかりなので、補足説明だけにします。
 
 八正道とは 見、思、語、業、命、精進、念、定を正しく修行しましょう。というものですが、8という区分にはあまり意味はないと考えております。必要なのは見と定でありまして、その間を幾つに分けるかは各人の自由だと思います。
 
 正しい禅定を行う決意が無ければ、正しい禅定はできないことは明白です。そして、正しい禅定に至るためには、普段の生活も大切だということです。
 
 二日酔いで座禅を組んでも上手く行きませんし、恋人と大喧嘩の真っ最中でも上手く行きません。心の訓練、精神修養ですから、普段はチャランポランの生活で、座禅の時だけ真面目を装ってもダメなわけです。自分の問題ですから、自分だけにしか分かりませんが、修行が上手く行かないのも自分なわけです。
 
 正しい座禅によって、正しい禅定ができる様に、仮に六項目を挙げて八つの命題にしたのでしょう。要するに、普段の生活全般が正しい座禅の準備であり、準備ができて初めて正しい禅定が可能なのですよ。ということだと思います。
 
 普段の生活を振り返り、反省すべきは反省して、最善を尽くすことが大切です。どんなに力んでも、出来ないことは、出来ません。出来ることを、出来るように、頑張りましょう。
 

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