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3-3 四聖諦3
(この部屋は、番号順にお読み下さい)
釈尊の示された、四聖諦を説明しています。
四聖諦の一:苦の真理
の二:苦の集(おこり)の真理
の三:苦の滅(ほろび)の真理
の四:苦の滅への道の真理
今回は三番、「苦の滅(ほろび)の真理」についてですね。
欲求により苦が生じるのならば、単純に、欲求を無くせば良い・・・と考えられます。
なんとも、ありきたりで、平凡な考え方ですよね。それが出来れば苦労はしないと、多くの方が思われるのではないでしょうか。
しかし、釈尊の言葉として伝えられている答えも、早い話が「欲求を無くせば良い」というものです。
「仏教の根本聖典 増谷文雄著 大蔵出版(以下根本聖典と略記)」の38頁の文を引用しますと、
「渇愛を、あますところなく捨て去り、離れ去り、解脱して執着することがなければ、また苦の起こりきたることもない」
渇愛とは、至るところに満足を求める心、即ち欲求のことです。
釈尊の教えも、「それが出来れば苦労はしない」と言いたくなる回答に過ぎないわけですね。
釈尊は、苦の滅の真理を、四つの聖なる真理、四聖諦の一つとして語られております。それ程までに、大切な教えなのであります。それが、多くの人が「ナ〜ンダ」と思われる様な教えである筈がありません。
では、この真理とは、一体、何なのでしょう。
解説のし方に問題があると思います。今は、2500年前のマガダ国ではないのです。学問的には不都合かも知れませんが、次の様に説明すると分かり易いと思います。
今、私たちが望んで求めているもの(欲求)とは、満足させる価値がないことに気付きなさい、と表現すると分かり易いですね(釈尊も説法の中でこの様な表現を採っております)。
皆さんも、自分が子供の頃を思い出して下さい。五、六歳の頃、欲しい玩具が買って貰えないと、泣いて騒いで、大変だったと思います。しかし、二十歳位まで成長すると、その玩具は、どうでも良くなっている筈です。
今日、ガチャガチャ(ガチャポン)がしたくて座り込み、駄々を捏ねている子供も、数年もすれば、そんなもの、どうでも良くなっていると思います。
これは何故でしょうか。 簡単ですね。成長したからです。成長したから、成長前に望んで求めていた(欲求)は、もはや満足させる価値がなくなってしまったのです。
当たり前じゃないか。いつまでも子供じゃないんだ・・・と思われるでしょう。
その通りです。日常的に誰でも経験している「成長」と同じ様に、凡夫の欲求なんて、佛に「成長」すればどうでも良くなってしまうことを、釈尊は自らの「成長(さとり)」によって経験したのでしょう。
だから、釈尊は説いたのだと思います。四聖諦の一つの大切な教えとして、苦の滅の真理を。
ここでも注意があります。欲求は、いくら押さえて、封じ込めても意味がない、ということです。
もはや満たす価値もない、と、思える様に成長することが必要なのです。そうでなければ、抑圧された欲求は、形を変えて必ず浮上して来るものだからです。
加えて私見を記すならば、「快」や「楽しみ」、もっと広く「幸せ」というものも、子供よりも大人の方が、より大きく深くなっているでしょう。
成長した方が、成長する前よりも、より大きく深い「幸せ」を得る可能性があることも、日常的に経験、若しくは観察できることであります。
従いまして、「成長」して佛になれば、成長前の凡夫の頃よりもより大きく深い「幸せ」が得られる、と考えられます。
釈尊は、一見、禁欲主義ですが本当は禁欲主義ではないと思います。
今まで大切に思って執着していたこの世の欲求が、本当は満たす価値のない、つまらないもの、子供の玩具の様なものに見えたとします。その時、より大きく深い幸せ感に包まれたとします。すると、生まれ変わって来てまでこの世の欲求を満たそうとは、しなくなるだろうことは、容易に想像できます。
これが、輪廻を断ち切る、ということなのでしょう。
この様に、成長できた時、「さとり」が得られて、解脱するのだと思います。
ここで大切なのは、頭で解るだけではいけない、ということです。
成長して実感しなければ、意味がないのです。そして(ここが仏教と他の宗教の違う所なのですが)、釈尊は、ちゃんと、その方法を説いて下さっております(注1)。
欲望を無くす(成長する)方法、それは、四聖諦の第四番、「苦の滅への道の真理」であります。
注1:説いては下さっておりますが、とても難しいです。1年や2年どころか、10年や20年でも無理かもしれません(少なくとも、私には)。簡単に、解った積もりにならない様に注意しましょう。また、出来ないからと言って、落胆しない様にしましょう。
出来ることを、出来るように、頑張るのが大切です。心配しなくても、やっただけの成長はある筈ですから。
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