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3-1 四聖諦1
 
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 これから記します仏法とは、「四聖諦」「八正道」「縁起」の3つです。
 
 ところが、この3つ。どれ一つをとりましても、それだけで分厚い一冊の本になりそうな程、奥が深いのであります。
 
 このホームページで説明しているのは、「私流」の仏教ですから、私が理解した仏法を分かり易く簡略化して記すことにします。
 
 
 私は、釈尊の教えはどこまでも、現実的、実践的、であると考えております。
 
 空想世界の幸せや救いを求めるのではなく、
 現実世界を言葉や理屈で取り繕って、無理矢理自分を納得させる教えでもない。
 
 実践すれば、しただけ、その効果が実感出来る教え。それは、現実的かつ実践的になる筈なのであります。
 
 
 では、最初に「四聖諦」から。
 
 四聖諦を日本語に訳すにあたり、訳者によって、やや微妙に違いがあります。ここでは、「大蔵出版 増谷文雄著 仏教の根本聖典(以下根本聖典と略す)」の言葉を引用します。
 
 四聖諦の一:苦の真理
    の二:苦の集(おこり)の真理
    の三:苦の滅の真理
    の四:苦の滅への道の真理
 
 が四聖諦の項目であります。
 
 四聖諦第一番、「苦の真理」は、「生は苦である」とか「この世は苦である」とかと解説されております。
 
 この世が苦であるからこそ、苦から逃れるために「さとり」を得て、この世から解脱する必要があるわけですね。
 
 しかし、「生は苦である」「この世は苦である」という「苦の真理」、何か変ではないでしょうか。
 
 この世が苦ならば、自殺でもして死んでしまえば苦から逃げることが可能と思えますよね。
 
 でも、釈尊は、修行途中で自殺しませんでしたし、「死んだ」と噂される程の苦行の中からも、一度ならず生還されたわけです。
 
 従って、「この世は苦である」という真理は、死ぬことによっても逃れられないことになります。
 
 釈尊はこのことを知っていたから死なずに「さとり」を求めたと考えられます。
 
 これは、釈尊以外の修行者にも言えると思います。死んで救われるのならば、何もこの世で修行する必要はないでしょう。まして、辛い苦行を進んで行う者もいないと思われます。
 
 では、「この世は苦である」という教え、これは一体、何なのでしょう。
 
 私の思うには、これは比喩であります。釈尊在世当時のマガタ国では、この表現で一般に理解納得できたのでしょう。しかし、今の日本では、この訳だけでは不適切と考えています。
 
 では、「この世は苦である」という真理は、どういう意味なのでしょうか。
 
 「私を取り巻く世界は苦である」という方が分かり易いと思います。
 
 インドには、輪廻転生思想があります。生まれていようが、死んでいようが、私がある以上「私を取り巻く世界は苦である」という状況に変わりはありません。
 
 従いまして、兎にも角にも、生きていようが死んでいようが、「苦」なのだから、修行して「さとり」を得て解脱しましょう。
 
 解脱しないと、いつまでも苦しむことになりますよ。という事を示したのが、
           「苦の真理」
 なのだと考えるのであります。


 

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