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3 仏教の修行方法

 修行の方法は、「座禅」だと思います。

 ゴータマ・シッダールタ師は、どの様に修行されて「さとり」を得られたのでしょうか。
 
 ゴータマ・シッダールタ師は、予め「さとり」を得るべくしてお生まれになったので、どんな修行によっても、「さとり」を得ることが可能だったとは
思いません
 
 まして、ゴータマ・シッダールタ師は、「さとる」べくしてお生まれになった、生まれながらの尊者であり、放っておいても「さとり」が得られた、とは
とても思えないのであります。
 
 ゴータマ・シッダールタ師は、何人もの聖者を訪ねては修行し、修行しては新たな聖者を探したものと思います。
 
 訪ねた聖者の境地に短期間で到達してしまった師は確かに天才だったのかも知れません。しかし、たとえ天才のゴータマ・シッダールタ師であっても、凄まじい修行の末に、各聖者の境地にまで到達し得たのだと想像しています。
 
 多くの聖者の到達した境地に、自らも達してしまったゴータマ・シッダールタ師は、それらの境地では満足出来ませんでした。即ち「解脱した」とか「救われた」とかの確証が得られなかったのでしょう。
 
 自分を超える聖者がいない以上、その先は自分で切り拓(ひら)かねばなりません。そこで、当時インドで主流だった苦行を徹底的に行ったわけであります。 
 その徹底ぶりは、同じく修行している求道者をして「ゴータマは死んだよ」と言わしめたことが一度ではなかったことからも窺い知れます。
 
 苦行では「さとり」が得られなかったゴータマ・シッダールタ師は、これまでの修行生活を振り返って考えられたことでしょう。そして、(私の想像ですが)ハッと気付かれたのだと思います。
 
 苦行ではダメだ。今も昔も変わらぬ修行の基本中の基本、即ち、座禅による瞑想によって、再度修行してみよう、と。

※※※
 武道など各方面の技は、その基本の中に、修行の壁を打ち破る鍵を秘めている場合が多いですよね。
 
 基本を習得した後、紆余曲折と修行を重ねて行き詰まり、再び基本に戻って修行した時、ようやく新たな境地に達する。
 
 皆さんにも経験があるのではないでしょうか。
※※※

 ここから先は、皆さんもご存じかも知れませんね。有名ですから。
 
 苦行(主に断食)によって疲れた身体を、スジャーター嬢の乳粥で養い、遊行して訪れたマガタ国のウルヴェーラー村のネーランジャラー川(尼連禅河)の畔の菩提樹の木陰に結跏趺坐して座禅し、瞑想修行を始めました。
 
※※※
 この時でさえ、ゴータマ・シッダールタ師はまだ、座禅瞑想(禅定)によってでも「さとり」が得られるかどうかは疑問だったのだと思います。
 
 「さとりが得られなければ、この座を解かぬ」と決意して座禅を始められたと伝えられておりますが、おそらく、それまでの修行でも、同じ決意で修行されて来たことと想像しております。
 
 だからこそ、「死んだ」との噂が流れるほどの苦行もなさったのでしょう。
 
 もしも、座禅によっても「さとり」が得られなかったならば、更に他の修行に移ったことでしょう。
 
 したがって、この座禅による修行によって得られた「さとり」は、本物だと、私は考えるのであります。
※※※

 座禅修行の結果、ゴータマ・シッダールタ師には、
 
「私の解脱は、もはや不動である。迷いの人生は尽きた。清浄なる修行はすでに確立した。なすべき事は全てなし終わった。もはや、再び迷いの人生を繰り返すことはないであろう」
 との智が得られたそうであります。
 
 即ち、「さとり」を得られ、釈尊となられたのであります。
 
 追記)
 先の※※※にも記した様に、もしも、この時、「さとり」が得られなかったならば、当時三十五歳という若さだったゴータマ・シッダールタ師は、更に他の修行を行ったであろうことは想像に難くありません。従って、ゴータマ・シッダールタ師は座禅によって「さとり」を得られたのだと私は考えております。 
 
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セブンアンドワイ
 
ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法
































 
 
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