02hajimeni

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はじめに
 
 信仰の起源は、人類の起源と同じくらい古いものだと思います。何万年もの昔から、人は何かを信仰してきたことでしょう。
 
 信仰の歴史がそれ程までに長いものならば、考えるべきは
考え尽くされ、修行すべきは修行し尽くされ、言われるべきは言い尽くされて来たと考えるのが自然であります。
 
 仏教の開祖のお釈迦様ですら、「過去の正覚者の辿った古径を発見したのである」と申され、自分の独創である、などと不遜なことは申されておりません。
 
 また、「如来がこの世に出現しようとしまいと、真理(法)がこの世にあることに違いはない」と申されております。
 
 信仰の目的を真理の獲得とするならば、真理は太古の昔から変化しないでしょうから(変化したら真理ではないでしょうし・・・)、やはり、考えるべくは考え尽くされ、修行すべきは修行し尽くされ、言われるべきは言い尽くされて来たと考えられます。
 
 しからば、この世に次から次へと宗教が興きては消え、消えては興るのは何故でしょうか。勿論、真理の欠片も持ち合わせない淫祠邪教もあるでしょうし、金や権力を目的とした疑似宗教や、思い込みによる変な宗教もあるでしょう。しかし、それだけでは無いと思います。
 
 おそらく、「
真理は言葉で表現できない」からだと思われます。
 
 そもそも、お釈迦様は書物を残しておりません。何故かを考えてみましょう。おそらく、言葉にできない真理を理解させるために、様々な比喩を用いたためと思われます。
 
 比喩は、教えを聞く人に合わせて内容を工夫する必要があります。それを書物として残すと、誰が読むのか分かりませんから、意図しない受け取り方をされるかも知れません。時間的、空間的に離れた場所に教えが伝播していくと、比喩は意味をなさなくなることもあります。
 
 誤解される危険の大きい書物を残すよりも、真理の後継者を育てることの方が、教えは正しく継承されて行くでしょう。

 継承した人は、その人が生きる時代と場所に適した表現でもって真理を伝えようとするでしょう。
 
 同じ真理であっても時代や場所、理解させようとする人によって、表現方法が異なるのは当然と思われます。このため、次から次へと宗教は興っては消え、消えては興るものなのでしょう。
 
 考えるべくは
考え尽くされ、修行すべきは修行し尽くされ、言われるべきは言い尽くされた教えではありますが、価値観の多様化、社会環境の変化が著しい今日に、少しでも分かり易く表現することで、皆様の信仰心が少しでも深まれば良いなぁ、と、思っております。
 
 表現方法は一つではありません。ご意見、ご質問は大歓迎ですが、論難や誹謗中傷、好奇心によるご意見等はご遠慮下さい。私を含め、誰しも自分が信ずる教えは正しいと思うものです。それが信仰というものですから。
 
           

  
 

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