宗教は危ない

 何事によらず、盲信、というのは危険であります。
 
 特に信仰(宗教を含む)は、信念の拠り所が「神」「仏」「真理」などという、ある意味では絶対的な概念になります。
 
 概念は心の中に存在を生み出します。絶対的存在に対して人間は弱いものです。盲信に陥ると修正が難しく、もし気付けたとしても、絶対的存在への依存心から盲信している振りをして続けたりします。
 
 信仰に対する盲信の恐ろしいところは、
善悪を含む物事の判断基準や、自分の存在意義さえも放棄し、自分以外の他者に捧げてしまう所にあります。
 
 捧げる対象が、特定の宗教団体であれ、個人的宗教家であれ、感化された書籍等であれ、その背後には信仰の対象となる絶対的存在が(当人にとっては)輝いているわけであります。
 
 こうなりますと、信仰者の行動は、常に絶対的存在に承認され、守られたものとなりかねません。たとえ、その信仰対象が正しくは無かったとしてもです。
 
 信仰者にしてみれば、自分に異を唱える者が悪魔の手先や、あわれな無知の輩(やから)であって、信仰の対象が間違っていたと認めることは困難でしょう。
 
 一方で、絶対的存在に対しての背信行為は、その絶対性ゆえに、隠すことは不可能であります。
 
 絶対的存在が罰を下すかどうかは判りませんが、少なくとも、信仰者の自責の念は、信仰心が深ければ深いほど、痛烈なものとなるでしょう。
 
 絶対的存在というモノが、有るのか無いのか判りません。もし運良くその「絶対的存在」に対して信仰出来れば良いですが、そうで無ければ悲劇であります。
 
 そして、悲しいかな、歴史を振り返ってみますと、どうも、その様な信仰対象はありそうにも無いのであります。
 
 もしも、神や仏が絶対的存在だったとしても、神の啓示であれ仏の教えであれ、結局、それを受け取り、解釈し、理解し、実践するのは人間なのであります。
 
 物事の判断基準を放棄した人が、啓示や教えを正しく理解して実践することは不可能と思われます。
 
 これは自動車の運転と同じです。どんなに正確に道路を憶えても(正しく啓示を憶えても)目を閉じては安全に運転できません(盲信では実践できません)。
 
 結局、危険極まりない行為で社会に迷惑を掛け、当人は破滅するかも知れません。


 信仰とはこの様に、とても危険な側面を持ちます。だからこそ、仏教の開祖、釈尊は「自燈明」という言葉を残されています。
 
 「自燈明」とは、自らを拠り所とし、他者を拠り所としない、ということです。
 
 誰の教えであれ、どんな教えであれ、自分が信じているものであれ、概念などは解釈により、どうとでも採れるのであります。
 
 従いまして、信仰対象を絶対化せず、常にこれを疑い、疑いながら信じて実践することが大切かと思います。
 
 本当の真理や、絶対的存在ならば、どんなに疑っても不正はみつからないでしょうから。
 
 難しいことですが、この部屋を読まれる方には特に大切と思います。心に刻んでおいて頂きたいと、切に願う次第であります。

 
 
このサイトに掲載の記事・写真等の著作物の無断転載を禁じます。
Copyright 2004 genkuuji. All rights reserved.
No reproductionor republication without written permission.